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アンカー 1
研究内容
私たちの研究室では、動物の行動や生理現象を、化学の視点から解き明かす研究に取り組んでいます。特に「におい」に注目し、動物がにおいをどのように作り、感じ、それを行動や生理にどのように利用しているのかを、行動解析、生化学、分析化学などさまざまな方法を組み合わせて研究しています。身近な動物や身近な現象の中にある「なぜ?」を出発点に、行動から分子までつなげて理解することを目指しています。
私たちのネコ研究の出発点は、「なぜ健康なネコの尿には大量のタンパク質が含まれているのか?」という素朴な疑問でした。
一般に、尿に大量のタンパク質が排泄される「タンパク尿」は、腎臓の異常を疑う重要なサインです。ところがネコでは、健康な個体でも尿中に大量のタンパク質が排泄されます。これまでの生理学や病態額を踏まえて考えると、これはとても不思議な現象でした。

そこで、「健康なネコは、なぜタンパク尿なのか」を調べる研究を始めました。その過程で、ネコの尿に大量に含まれるタンパク質を発見し、「コーキシン(Cauxin)」と名付けました。さらにコーキシンの働きを調べていくと、このタンパク質が単に尿へ排泄されているのではなく、ネコ特有のアミノ酸「フェリニン」を作る酵素として働いていることが分かりました。そしてフェリニンからは、ネコ独特の尿臭を作る硫黄化合物「3メルカプト3メチル1ブタノール」が生じます。これは、ネコに特異的で雄で尿中濃度が高く雌で低いため、種や性を識別する化学シグナルと考えられました。つまり、「なぜ健康なネコはタンパク尿なのか」という疑問を追いかけていたら、いつの間にか「ネコはなぜネコ臭いのか」という、においの世界にたどり着いたのです。

ここから私たちの研究は、ネコ特有のにおいがどのように作られるのか、そしてそのにおいにどのような意味があるのかを調べる嗅覚コミュニケーションの研究へと発展していきました。研究を進める中で、コーキシンにはさらに意外な役割があることも分かりました。ネコは縄張りを示すため、尾を上げて壁などの垂直面に尿を吹きつける「尿スプレー」を行います。スプレー尿は普通に排泄された尿よりも強烈ににおうため、長い間、特別なにおい成分が加わっているのではないかと考えられてきました。ところが、スプレー尿と普通の尿を実際に比較すると、におい成分そのものには大きな違いがありませんでした。違っていたのは、尿の「広がり方」です。コーキシンをはじめとする尿中タンパク質には、尿を壁などに濡れ広がりやすく、付着しやすくする働きがありました。壁に吹きつけられた尿は流れ落ちながら広い面積に広がり、そこからにおい成分を効率よく空気中へ放出します。

つまりコーキシンは、ネコ特有のにおいの材料を作るだけでなく、そのにおいを効率よく周囲へ広げることにも関わっていたのです。私たちはこのように、一見すると病気のサインにも見える「タンパク尿」という生理現象から出発し、ネコ特有の尿臭が作られる仕組み、そしてそのにおいを周囲へ伝える仕組みを明らかにしてきました。

私たちは、健康なネコにもみられる「タンパク尿」の研究から、尿中タンパク質コーキシンを発見し、さらにコーキシンがネコ特有の尿臭成分を作ることを明らかにしました。そこで当初は、このネコ特有の尿臭成分がフレーメンを引き起こすのではないかと考えました。ところが、実際にその成分をネコに嗅がせると、興味をもって嗅ぐものの、フレーメンは起こりませんでした。「では、ネコはいったい尿中の何を感じてフレーメンをしているのか?」。

フレーメンという生まれつき備わった行動を手掛かりに尿中成分を追跡し、ドイツの化学者Stefan Schulz教授との共同研 究によって、炭素鎖が枝分かれした特殊な「分岐鎖脂肪酸」を十数種類発見しました。興味深いことに、その種類と割合はネコごとに異なる一方、同じ個体では比較的安定していました。

さらに行動実験を行うと、ネコは同じ個体の尿を繰り返し嗅ぐと次第に反応しなくなりますが、別のネコの尿に替えると再び強く反応しました。また、ほかの尿中脂質を同じにして分岐鎖脂肪酸の組成だけを変えても、ネコはその違いを嗅ぎ分けることができました。これらの結果から、分岐鎖脂肪酸の組み合わせは、尿に「誰のものか」という情報を残す「においの名刺」の有力な候補であると考えています。
では、この個体ごとに異なる「においの名刺」は、体のどこで作られ、どのように安定して維持されているのでしょうか。調べていくと、分岐鎖脂肪酸を含む脂質が腎臓の脂肪滴に蓄えられていることが分かりました。ネコの腎臓に多くの脂肪滴が存在することは100年以上前から知られていましたが、その役割は謎でした。私たちは、この脂肪滴が分岐鎖脂肪酸を蓄え、個体特有の組成を安定して尿へ供給する「においの貯蔵庫」として働いている可能性を考えています。
関連する分岐鎖脂肪酸はライオンやトラなど、ほかのネコ科動物からも見つかっています。こうして、「ネコはなぜフレーメンをするのか?」という小さ な疑問から始まった研究が、「ネコはにおいで相手をどのように見分けているのか」、さらに「その個体情報を体内でどのように作り、維持しているのか」という研究へ発展しました。

3.ネコ特異な脂質代謝機構に関する研究

種の識別に重要な化合物がどのような代謝系で生産されているか調べています。私たちは、ネコが完全肉食に適応する過程で、脂質代謝経路を他の動物と大きく変え、ネコ特有な化合物が生成されることを突き止めました。興味深いことにこの発見した代謝系は、ヒトでもごく僅かに機能していることを見出しました。現在は、なぜネコでだけこの代謝経路が亢進しているのか分子メカニズムの解明を目指しています。このようにネコの研究は、ある化合物が進化の過程でどのように嗅覚シグナルになったかを理解することに留まらず、ヒトで見逃されている代謝系の発見にもつながる重要なものと考えています。
*おもちゃです
4.なぜネコはマタタビに夢中になるのか?
― 300年以上の謎に挑むマタタビ反応の研究 ―



「ネコにマタタビ」という言葉があるように、ネコがマタタビを大好物とすることは昔からよく知られています。マタタビを見つけたネコは、葉を舐めたり噛んだり、顔や頭を擦り付けたり、地面をゴロゴロ転がったりします。
しかし、なぜネコはこんな不思議な行動をするのでしょうか。
私たちはマタタビから、ネコに強い反応を引き起こす物質「ネペタラクトール」を発見しました。そして、ネコがマタタビに顔や頭を擦り付けることで、この物質を自分の体につけていることを明らかにしました。さらにネペタラクトールには蚊を遠ざける作用があり、マタタビ反応をしたネコは蚊に刺されにくくなることが分かりました。つまり、一見すると遊んだり酔ったりしているように見えるマタタビ反応には、植物の成分を利用して害虫から身を守るという機能があったのです。
では、なぜ完全肉食のネコはマタタビの葉を舐めたり噛んだりするのでしょうか。調べてみると、葉が傷つくことで有効成分の放出量が大きく増え、その組成も変化し、ネコに対する作用と蚊を避ける作用の両方が強まることが分かりました。ネコはただマタタビに反応するだけでなく、自ら植物を傷つけることで、その防虫効果を高めていたのです。
また、欧米でネコが好む植物として知られるキャットニップとの比較も進めています。どちらもネコに特徴的な反応を起こしますが、ネコが自由に近づくか無視するかを選べる環境では、海外由来の品種を含め、キャットニップよりマタタビに反応するネコが多いことが分かりました。
さらに、「マタタビを与えると依存症になるのではないか」「体に悪くないのか」という疑問についても研究しました。行動試験や血液検査の結果、マタタビによる依存性やストレスの増加は認められず、長期間与えたネコでも肝臓や腎臓の機能障害を示す変化は認められませんでした。さらに、マタタビの葉は乾燥させることで有効成分の組成が変化し、ネコへの作用が高まることも分かりました。これらの成果は、マタタビをネコの生活を豊かにする「嗅覚エンリッチメント」として利用するための科学的根拠にもなっています。
私たちは、マタタビ反応を入り口として、ネコ科動物の感覚、行動、神経、生態、そして進化をつなぐ研究を進めています。


5.なぜネコはごはんを少し残すのか?
― 「におい」が食欲を調節する仕組みの研究 ―
「さっきまで食べていたのに、どうして急に食べるのをやめるのだろう?」
ネコと暮らしている人なら、一度は不思議に思ったことがあるかもしれません。ネコは一度に大量の餌を食べるのではなく、1日に何度も少しずつ食べる傾向があります。しかし、なぜ食事の途中で食べるのをやめるのかは、十分に分かっていませんでした。
コーキシン
BFA
私たちは、同じ餌を繰り返し与えると、ネコが食べる量が次第に減っていくことを発見しました。ところが、別の餌に替えると再び食べる量が増えます。これは、同じ刺激に慣れて反応が弱くなる「嗅覚順応」と、新しい刺激によって反応が戻る「脱順応」によって説明できます。さらに興味深いことに、食べる餌そのものを替えなくても、「においだけ」を新しくすると食べる量が回復しました。 反対に、食事の合間にも同じ餌のにおいを嗅がせ続けると、その後に食べる量が減りました。
つまりネコは、「お腹がいっぱいだから」だけで食事をやめるのではなく、同じにおいに慣れることで一時的に食欲が低下し、新しいにおいに出会うことで再び食欲が高まると考えられます。この研究は、ネコ特有の少量頻回摂食を理解するだけでなく、食欲が低下したネコへの給餌方法、高齢ネコや病気のネコの栄養管理、そしてペットフードの開発にもつながる可能性があります。私たちは、ネコにとっての「におい」が、仲間とのコミュニケーションだけでなく、食べるという生命活動そのものを調節する重要な感覚情報であることにも注目しています。
フェリニン経路
マタタビ
餌
つわり
6.なぜ妊娠すると「におい」の感じ方が変わるのか?
― つわりと嗅覚の研究 ―
私たちは、同じにおいでも、体調や生理状態によって感じ方が大きく変わることがあります。その身近な例 の一つが、妊娠中の「つわり」です。妊娠すると、それまで気にならなかった食べ物や生活環境のにおいを不快に感じ、吐き気が惹起・増強されることがあります。しかし、なぜ妊娠すると特定のにおいに対する反応が変化するのか、その仕組みはよく分かっていません。そこで私たちは、妊娠に伴う体内環境の変化が、においの感じ方やそれに対する生理的反応・行動をどのように変化させるのか、そのメカニズムの解明を目指しています。

アロマデザイナー
7.複雑な「におい」を分解し、組み直す
― 新しい香り分析装置「アロマデザイナー」の開発 ―
果物、花、食品、飲料などの香りは、たった一つの化学物質からできているわけではありません。数十から数百種類もの化学物質が混ざり合うことで、一つの「香り」が作られています。しかし、その中のどの物質が本当にその香りを作るうえで重要なのかを突き止めるのは簡単ではありません。一般的なガスクロマトグラフ質量分析計(GC/MS)を使えば、香りの中にどのような化学物質が含まれているかを調べることができます。しかし、個々の化学物質が香りの形成にどの程度重要なのかまでは調べることができませんでした。
そこで私たちは島津製作所と共同で、香りを構成する化学物質の組み合わせを自由に変えられる分析装置**「アロマデザイナー」を開発しました。発想の原点は、「この成分を取り除いたら、全体の香りはどう変わるのか?」を簡単に調べられる装置を作ることでした。例えば、天然の香りから特定の成分だけを消したり、ある成分を別の成分に置き換えたりして、そのとき人が感じる香りがどのように変化するかを直接調べることができます。これによって、多数の成分の中から、香りを作るうえで本当に重要な物質を効率よく見つけることができます。
この技術は、食品や飲料、香料、芳香剤や消臭剤の開発だけでなく、環境や工業製品から発生する異臭の原因究明、さらには動物のフェロモンやマタタビの新しい活性物質を探す研究にも利用できます。私たちは、ネコの研究から培ってきた「においを化学的に見る技術」を、動物の行動や生命現象の理解から、食品・香料・製品開発まで幅広く展開しています。

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